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2025年9月9日(火)   長谷寺 
 
 万博見物を終えて、折角関西まで足を延ばしたついでに奈良の長谷寺に参拝する。
 長谷寺には50年ほど前に一度お参りしたことがあるが、駅からかなり歩いたことと参道の両側にお店が建っていたことしか記憶に残っていない。半世紀という時間は長谷寺を遠い過去に押しやってしまったようだ。
 今回は猛暑と高齢者であることを自覚して、近鉄長谷寺駅からタクシーを利用して長谷寺門前まで送ってもらう。門前からの参道、明治22年(1889年)に再建された仁王門を目にしても50年前の記憶は全く蘇ってはこない。
 
 長谷寺 参道
 長谷寺に続く階段の参道を見ても初めて訪ねる風景にしか見えない それだけ歳を取ってしまったわけであるが 半世紀という時間の長いことを実感させられる

仁王門
 トップヘビーの重厚な楼門に圧倒される それにしてここまでの参道の石段を登ってきただけで汗が流れるように湧き出てきて 本日も猛暑に耐えての参拝になりそうである

 仁王門を潜ると緩やかではあるが、登りの階段が延々と続いている。本堂まで399段の階段は登廊(のぼりろう)と呼ばれ、元々は長暦3年(1039年)に建造され、現在の登廊は仁王門と同じく明治22年に再建されたものである。千年もの間、多くの老若男女がご本尊の十一面観世音菩薩のご利益を願って登廊を上り下りしたかと思うと、一歩一歩が疎かにできない重みを感じる。しかし、猛暑のせいで噴き出す汗を拭うのに精一杯となり、雑念が頭を駆け巡るばかりとは情けない次第である。
 上中下の三廊に分かれた登廊の中の登廊を登り切ったところに、紀貫之の故里の梅が何代の代を重ねたのか分からないが、植えられている。梅の木の前に立つ説明板には、古今集にある「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」という紀貫之の和歌が書かれている。梅の香りに誘われて故郷を思い出し、参拝した紀貫之が梅の木を植えたのだろうか。紀貫之といえば、土佐から都に帰る女性の道中を綴った土佐日記が有名であるが、女性文字といわれる平仮名で書かれた最初の日記文学といわれている。
 
 
登廊
下から覗くと階段は果てしなく続いて行くように見える 浄土といってよいのか まさに異空間に誘う階段である

紀貫之故里の梅
梅の古木を想像していたが まだ若木のようである 千数百年以上も前に紀貫之も参拝したのであろう

 紀貫之故里の梅から上の登廊を上って行くと、国宝に指定されている本堂に出る。慶安3年(1650年)に徳川家光により造営され、高さ10メートル余の十一面観世音菩薩が安置されている。長谷寺は全国の観音信仰の中心であり、十一面観世音菩薩像は見上げなければ尊顔を拝めないほどの大きさで圧倒される。
 本堂は山の斜面に建てられており、京都の清水寺と同じように斜面からせり出して舞台が設けられている。清水寺よりも小さな舞台であるが、舞台からは長谷寺の境内全体を見渡すことができ、山の中に建立された寺院であることがよくわかる。
 本堂内には板敷の内舞台が設けられ、僧侶はここに座してご本尊に対面して読経するという。
 境内には昭和29年(1954年)に建てられた五重塔が聳え立ち、屋根裏の朱色に塗られた垂木が真夏の青空と対比して美しい。
   
 
本堂
正面奥に十一面観世音菩薩が安置されている

  長谷の舞台
 舞台からの眺望は美しいが 何しろ陽射しが強く 時間を忘れて風景に浸る余裕がないのは残念 
 
本堂内の舞台
磨き抜かれて黒光りする内舞台を背にして観光客はご本尊の十一面観世音菩薩を拝んでいる
 
五重塔

 猛暑が半端でなく立っているだけで汗が噴き出す始末となり、五重塔から下っていき、元々境内に建っていたという三重塔跡を写真に納める。明治9年(1876年)の落雷で焼失したため、現在は礎石を残すだけでその姿を観ることは出来ない。
 昼食どきとなり、下の登廊を登る途中で目にして月輪院のカフェに立ち寄る。登廊に面した月輪院の門前に呼び込みの女性が立っていて、月輪院の食堂まで案内してくれる。窓に面して席には猛暑にも関わらず、断続的に涼やかな風が注ぎ込み、ひと時のオアシスを味わう。奈良の寺院では茶粥が名物ということで、茶粥を中心としたランチを愉しむ。
 昼食を終えて門前でタクシーを待つ間、お土産屋さんが建ち並ぶ門前通りを眺めていると、50年前にこの通りを歩いて長谷寺にやって来たことが思い出されてくる。当時はもっと活気があったように記憶するが、観光客の姿も少なく、寂しい印象を受けるのは猛暑のせいであろうか。
 
 
三重塔跡
 
長谷寺門前通り


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